「宗祖親鸞聖人から私たち真宗門徒の念仏生活が問われる場」、それが報恩講だと言っていいと思います。聖人の教えに出遇(であ)い、生きる歓びを賜(たまわ)った、その御恩に報いる行儀(ぎょうぎ)としての報恩講ですから、単なる義務感や、人まねで終わってはならないことでしょう。
 「宗」が明らかになるということは、自分が定まる、自分の生活が定まるということであると教えられます。一体どこに定まったのか、本当に定まったのかと、自らの一年間を振り返って、改めて宗祖の前に正直に身を据(す)える、教えを聞き直すという姿勢をとる事をしなければ、私たちの日常は、世間の事につい流されていってしまいます。
「小さい頃、お内仏に参らないと食事がいただけなかった」と、よく年配の方々が話されますが、だだそれだけなら、仏様は大切な人(物?)という刷り込みをされたに過ぎないのでしょう。仏事というのは、念仏の行者の生活事であります。骨身を惜(お)しまずやっていることも含めて、これでよかったのだと言えない私の煩悩(ぼんのう)だらけの生活を、如来の眼すなわち本願の側から受け止め直させていただき、そこを新たな出発点、仏事としての生活とすることができるかどうかが、仏との出遇いの証(あかし)ではなかろうかと言っていいのではないでしょうか。
 その意味では、僧分も一般御門徒も、その他の人も共に、報恩講において御影(ごえい)に向かうときは特に虚心(きょしん)に、また同心になるべきです。そこに開かれてくる同朋意識が、また来年もと楽しみになる報恩講を創(つく)っていくのだと思います。
 各寺おとり越しの時期ですが、教区を挙げて勤めます、真向(まむ)きの御影が見つめる佐世保別院の報恩講へ是非御参詣いただきますようお願い申し上げます。


                                                 主査 松岡憲了

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